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〔本稿は、「共済の今日と未来を考える東京懇話会」1周年記念学習会(08.9/10)の記念講演をもとに、まとめていただいたものです。〕

「共済をめぐる情勢と展望」


2008年9月10日 明治大学商学部教授 押尾 直志

(プロフィール)
昭和24年3月千葉県生まれ
昭和52年明治大学大学院商学研究科博士課程
平成10年厚生省「生協のあり方検討会」委員
日本保険学会評議員 
日本協同組合学会会長
日本共済協会共済理論研究会監事
共済研究会代表運営委員



 みなさんこんばんは。ただいまご紹介にあずかりました、明治大学の押尾でございます。
 事務局から学習会への話を1時間でするようにと要請を承っており、たいぶ参考文献をおつけしましたので、とても全部お話することはできません。限られた時間ですが、できるだけ資料に沿ってお話をすすめさせていただこうと思います。

■共済制度を守っていく運動は、私たちの生活を守る大事な運動だと訴え続けることが必要

 ただいま労山の齊藤理事長から、「共済の今日と未来を考える懇話会」としてのこれまでの活動報告や、これからの展望などについてお話がございました。
 皆さん方の「懇話会」運動は、2005年12月に自主共済4団体で「共済の今日と未来を考える懇話会」として結成されて以降、自主共済に対する保険業法の適用除外を求める、金融庁への再三に亘っての要請活動、あるいは国会議員への協力要請及び署名運動を展開してきました。そして、中央の「懇話会」だけではなくて、もう30都道府県以上になるのでしょうか、地方「懇話会」の結成にまで運動が広がり、マスコミでも何度も取り上げられ、三度の議員立法提出という成果をもたらしました。
 「懇話会」運動が提起した、健全な自主共済を守る取り組みが保険行政と立法府に共済規制のあり方について、一定の影響を与えたことは確かだと思います。同時に、健全な自主共済に対する国民・世論の関心も広がりました。
 しかし、この間、保険法の審議の過程で、消費者団体等から共済(契約)を含めた保険法の改定内容は適切であるとしてとくに異論は出されなかったため、新しい保険法(保険契約法)が2008年5月30日に国会で成立し、6月6日公布されました。
 こういう経緯を見ますと、まだ国民・消費者の共済(制度)に対する理解が十分ではないということを痛感します。さきほど斉藤理事長も指摘されましたが、共済制度を守っていく「懇話会」運動が、私たちの生活を守る大事な運動であるということを広く世論に訴えていく必要があると思います。


■共済の意義、社会的役割を果たしてきたか、国民・消費者に十分情報発信してきたのかどうか

 これまで共済運動を支えてきた協同組合共済は、2005年に農業協同組合法が見直されて以降、相次いで行われた各種協同組合法の見直しによって保険業法に準拠した規制を受けるようになりました。
 農業協同組合をはじめとして各種の協同組合は、組合員の高齢化、保険事業はもとより他の共済事業、とくに近年成長が著しい生協共済など、共済団体間や簡易保険事業との競争に終始してきていますので、共済規制への対応と共済制度全体を守っていく運動の緊急性については、必ずしも「共済の今日と未来を考える懇話会」の会員団体の皆さんと同じような問題意識を持っているとは言い切れないのではないかと思います。
 協同組合共済を中心にこれまでの共済運動を振り返って見ますと、社会に開かれた存在として、共済の意義とか、あるいは社会的な役割などについて、国民・消費者に十分情報を発信してきたかどうか。各共済団体は地域社会・経済の問題に積極的に取り組み、貢献してきたかどうか。
 私たちが生活している個人主義・自己責任原則をルールとする資本主義(市場経済)社会では、私企業である保険会社が経済活動や社会生活にともなうリスクに対する保障(補償)制度として主要な役割を担っています。しかし、保険会社は国民の信頼に応える民主的な経営を行ない、生活保障を真に支える役割を果たしてきたとは決して言えません。国民は保険会社の契約者(消費者)不在の経営姿勢に対し、相互扶助理念にもとづき協同組合共済を組織し、自らの生活を守る運動を展開してきました。協同組合共済が保険会社の反社会的な経営を厳しく批判し、その改善を求める運動を展開してきたかどうかが問題です。
 とくに、第一次産業を基盤に組織されている協同組合共済は、近年では後継者あるいは次世代対策、共済間の競合、2007年に民営化されたかんぽ生命保険会社、それから一番共済団体にとって問題となる保険業界の規制緩和への対応に苦慮する中で、各種の協同組合法の見直しと、それに続く保険法の見直しへの対応に終始していると言っても過言ではないと思います。


■保険会社の経営実態−一方で国民からの信頼を失い、過当競争で大手中心の市場再編が加速

 それでは保険会社は、この間どのような経営実態であったのでしょうか。簡単に、事業概況の推移を数字でご紹介します。

(1)生保業界の動向−契約者志向の経営が実現されないのはなぜか
 まず生保業界について、です。
 生保業界、損保業界、それぞれ問題を抱えておりますが、過去10年ほどの事業内容の推移を簡単にご紹介します。
 1996年度は、ちょうど保険業法が57年ぶりに抜本的に改定された年です。

生保業界
(単位億円)

個人保険

1996年

2006年

新契約金額

1,439,450

670,457

保有契約金額

14,956,832

10,263,360

収入保険料

293,500

277,663

総資産

1,886,590

2,202,170

 生保事業については個人保険、団体保険の両方を見ていく必要があると思いますが、私たちの生活に直結している個人保険をみます。個人保険の新規契約金額(契約高の推移を表しています)は、143兆9450億円です。過去からずっと引き受けてきている累積契約金額(保有契約金額といいます)は、10倍くらいの金額に相当する1495兆6832億円です。収入保険料は、1996年度が29兆3500億円です。総資産は、188兆6590億円という実績です。そして10年後の2006年度の状態を同じ指標で見てみますと、新契約金額は、2006年度では67兆457億円です。新契約金額が半分以下に激減しています。新契約金額が減ってきたということは、引き受けている保有契約金額も大幅に減少するわけで、2006年度では1026兆3360億円です。収入保険料は29兆円余りだったものが、27兆7663億円と少し下がっています。生命保険は長期の契約ですから、積み立て保険料部分が圧倒的に多いので、資産は増えて220兆2170億円という実績です。
 ただ、生保業界は年度によって多少変動はありますが、年間900万件から1000万件くらいの新契約を営業職員が募集しています。ところが同じ1年間に、ほぼそれに匹敵するくらいの解約・失効が出ています。営業職員が汗水たらして歩合制で個別訪問したり職場を回って募集してくる新契約は、累計して1000万件くらいありますが、ほぼそれに匹敵するくらいの解約・失効で毎年契約が消滅しています。2年未満の契約が解約された場合、解約返戻金が戻ってきませんので(もちろん、その間の保障はありましたが)、払い込まれた保険料は無駄になってしまいます。

<ターンオーバー現象、解約・失効による生保会社収入増という悪循環>
 大量の解約・失効の原因とも言われる無理・義理募集も依然として跡を絶ちません。この問題は何十年も前から指摘されていますが、営業職員が大量に雇い入れられて大量に辞めてしまうというターンオーバー現象が依然として改善されていないのです。毎年、業界共通教育制度の一般課程試験に20万人弱くらいが合格し、営業職員として登録され、募集業務に従事しますが、それを上回る人数の営業職員が1年間に辞めていく悪循環を繰り返しているのです。
 昭和40年代の後半にこういう悪循環に対して、行政(保険審議会)主導で業界共通教育制度を導入し資質の向上を図るようになりましたが、それでも依然としてこの問題は改善されていません。その結果、無理・義理募集で集められた契約は、1〜2年のうちに解約・失効で消滅してしまうということになるのです。
 生保会社は、解約・失効が出るほど解約・失効益が入り、収入が増えていきます。生保会社も募集制度の抜本的な改善に本腰を入れて取り組んでこなかったし、行政も募集制度の抜本的な改善に向けた指導・監督を怠ってきたと言わざるをえないと思います。

<生保会社の民主的経営が実現しない中で自らの生活を守る共済事業の発展は必然的>
 また、定款上は株式を発行していない、したがって資本家のいない、保険契約者の代表が意思決定機関としての社員総代会を構成する、民主的な会社形態だという建前になっている、(生命)保険事業に特徴的な相互会社形態があります。
 保険株式会社形態から保険相互会社形態に組織変更することは保険業法で認められていましたが、1995年の改定以降、非営利で保険契約者主権の保険相互会社形態から保険株式会社形態に組織変更することを認めました。
 保険自由化後の相次ぐ保険相互会社の経営破たんと合併、ならびに日本で最初に設立された第一生命の保険株式会社への組織変更(2010年)発表など、保険相互会社形態は減少してきていますし、保険相互会社の社員総代会の形骸化も以前から指摘されているとおりです。
 近年行政による業務停止や業務改善命令が相次いで出された保険金・給付金の不払い、かつてのサラ金や商工ファンドあるいは公害企業など、反社会的企業への直接、間接融資、インフレ時におけるインフレ利得の問題など、保険会社は様々な不祥事を起こしてきました。
 免許制度のもとで行政庁の監督下にある保険会社がこういう不祥事を繰り返し、契約者志向経営が実現されていない生保業界の構造的な体質と社会保障の後退を背景にして、自分たちのくらしといのちを守る共済事業が発展してくるのは歴史的に必然性をもっていると言えます。

(2)損保業界の動向−不遜な経営姿勢が契約者被害に
 損保業界は、生保業界と少し状況が違いますが、やはり規制緩和後、寡占化がさらにすすみ、少数の大手損保会社に再編されていくという傾向がこの10年で強まっています。

損保業界
(単位億円)

自動車保険契約と総資産等の推移

1996年

2006年

新契約金額

1,439,450

670,457

保有契約金額

14,956,832

10,263,360

元受正味険料(収入保険料)

内、自動車保険料収入

106,220


36,491

85,293


35,185

総資産

303,581

372,747

 生保業界と同じように1996年度と2006年度を比較してみますと、元受正味保険料(これは積み立て保険料を含めて個人や企業との保険契約に関わる保険料収入の合計金額です)が、1996年度は10兆6220億円で、2006年度は8兆5293億円と、この10年で2兆円以上減少しています。損害保険では1年契約が基本で生命保険ほど貯蓄性保険は多くなく、生命保険業界と比較すると収入保険料総額は少ないので、2兆円以上の減少は、かなりの額と言えます。また、総資産は1996年度が30兆3581億円で、2006年度は37兆2747億円に増加しており、生保業界と同じように収入保険料の減少を資産運用で賄っていることを示しています。

<行き過ぎた競争がもたらすものは本当に国民の利益につながっているのかどうか>
 ご承知のように現在の損保事業では、自動車保険が主力商品です。自動車保険市場で一定のシェアを確保できない会社は、事業経営が非常に苦しくなります。自動車保険料収入を見ると、損保業界の10年間の動向がある程度お分かりいただけると思います。
 1996年度の自動車保険料収入は3兆6491億円ありますが、2006年度は3兆5185億円で、1300億円くらい減少しています。これは、かつて料率算定会中心の横並びの同じ商品を同じ価格で売ってきたわけですから(各社の保険商品は、品質・価格面では何も差がなかったのですから)、損保各社は、新契約を1件でも多く取ろうとする(売ろうとする)、いわゆる拡販競争が展開されてきました。競争が激しかったころは、一晩で代理店の看板が変わると言われたほど、代理店を増やす競争が繰り広げられてきたというのが実態です。
 とくに規制緩和(1998年7月)以降、自動車保険市場ではリスク細分型自動車保険商品の乱売に象徴されるように、価格引下げ競争が激化しています。そのことも収入保険料が減少している一つの理由だと思います。保険料が高すぎだということもあるでしょうが、この10年でかなり収入保険料が減少しています。行き過ぎた商品開発・価格競争の結果、保険商品の仕組み・料率体系が国民にとって非常に複雑になりわかりづらくなり、それが保険金の不払いの原因になったことを考えると、表面的に価格が安くなり、商品の選択の幅が広がったように見えるだけでは真に国民の利益につながっていると言えるのかどうか。

<80年代の半ば以降、財テクブームでバブル経済膨張の中で傷害保険商品を全部積立型商品に>
 もう一つ特徴的なのは、1980年代の半ば以降、財テクブームでバブル経済が膨張していく中で、損保会社が傷害保険を全部積立型商品に衣替えしていきました。一番極端なのは、保険金を数倍支払う積立女性保険の販売です。女性の場合は、顔に怪我をしたりすると美容上の問題があるということで、このような商品が傷害保険の一つとして開発され話題を呼びましたが、保険事故そのものはそれほど多くありませんので、明らかに保険料収入増を狙った商品でした。損保各社は3年〜5年の短満期の積立型傷害保険商品の開発に奔走していました。

<募集営業職員すら理解できない商品により、不払い・未払い問題を生じさせた>
 損保会社では毎年、特約を含め200〜300くらいの商品をスクラップ・アンド・ビルドしています。加入者にとって保険商品内容が分かりづらいのは当たり前です。営業担当者や代理店ですら、約款の内容を十分に理解していない状況です。
 保険契約では請求主義の立場が採用されており、保険金の請求がなければ支払わないという経営姿勢ですから、不払いが起きるのは当然のことです。そういうところを一つ採ってみても、契約者志向の経営が徹底されていないことがよく分かります。
 1980年代頃から乱開発された積立傷害保険商品は、バブル崩壊後運用環境が悪化し、逆ザヤが増え、保険会社の販売姿勢も消極的になりました。1996年度には2兆8930億円あった収入が、2006年度には1兆2937億円にまで減少しました。このように損保業界も、商品の乱開発と価格引き下げ競争の中で不払いや保険料の取り過ぎ問題を引き起こし、国民の信頼を失ったことが事業成績に反映されています。
 過当競争の結果、大手会社を中心に寡占化がすすみましたが、寡占化の何が問題なのでしょうか。寡占化の下では、大手中心の商品開発になり、価格(保険料率)も硬直化し下がらなくなります。中小保険会社もそれに追随していかざるをえなくなります。大手保険会社は価格を引き下げる余力がありますが、中小保険会社は非常に厳しい経営内容ですから、大手保険会社の価格を下回る価格水準を採ることは実際不可能です。
 乱開発される保険商品の仕組みばかりでなく、保険料率体系も消費者には非常に分かりづらくなります。消費者のニーズにあった適正な価格(料率)の保険商品開発がすすめられているかどうか、疑問に思います。


■保険業法(保険監督法)、保険契約法等の関連法の改定は、全て「消費者保護」がテーマに

 規制緩和政策の下で保険業界の競争がますます激化し、保険金不払いや保険料の取り過ぎなどの問題が起きている中で、保険事業を規制する法体系である保険業法と保険法が相次いで見直されました。特徴的なことは、保険業法も保険法も、「消費者保護」を建前にしていることです。
 「懇話会」のメンバー団体の皆さん方の運動に一番関わりのある2006年4月に施行された改定保険業法は、とくに自主共済の存続にとって大きな問題です。根拠法のある協同組合共済は、共済制度を守る運動への取り組みから見てもわかりますが、今回は適用除外とされ、当面は規制の対象外とされました。しかし、根拠法のある共済も今回の見直しで保険業法に取り込まれてしまったのです。今まで監督官庁も根拠法も異なり、健全に事業運営していたのですから、保険業法の中に取り込まれる理由はなにもなかったのです。それが今回の法の見直しでは、保険と共済の本質的な違いについて十分な議論もされないまま、短期間のうちに法改定してしまったのです。協同組合共済は法改定の意味を十分理解しなかったことが最大の問題です。


■次回改定では「根拠法のある共済」の見直しも目論まれている

 今回の改定で根拠法のある共済は保険業法の適用除外となったわけですが、既に皆さん方もご承知のように、保険業法の改定の審議の過程で、法施行5年後に根拠法のある共済を含めて保険業法を再度見直すことが明示されています。その際には保険会社、新設された少額短期保険業者および制度共済の全体のあり方を幅広く検討していくことを金融担当大臣が公言しているのです。
 第169国会の2008年5月30日に成立した保険法は「契約者保護」を大義名分にしながら、保険者と保険契約者等の保険関係者間におけるルールを現代社会に合った適正なものにする必要があるとして、見直しが行われました。
 保険法では保険契約の定義の中で共済の特質を無視して単なる「名称」の問題として曖昧にし、共済を共済契約として保険契約に一元化してしまいました。保険関係法の見直しは、このように半ば強引に共済規制を進めようとしているところに問題があります。
 一連の保険関係法の見直しに対して、協同組合共済は、当面は自分たちに関わる各種協同組合法の改定への対応に終始し、共済制度を守る運動を展開してきませんでした。
 国民・消費者にとって保険関係法の見直しがいかに重要な問題であるか、あまり認識されているとは言えません。自主的、主体的な取り組みとして発展してきた共済に対する保険関係法の一連の規制に対して、これをいかに跳ね除け、共済制度を守っていくべきかが問われているのです。共済団体の横断的な連携・団結が望まれるところですが、現状では皆さん方の「懇話会」運動が中心になっています。


■基本的人権を守る共済運動の新たな発展段階−その成否は共済の大同団結の成立にかかる

 しかし、共済制度の存続は、憲法に保障された私たちの基本的な人権、生存権、経済活動の自由、財産権の保護や結社の自由にも関わってきます。
 したがって、不当な共済規制は、憲法の理念や趣旨にもとる、国民の権利にとって重要な問題を含んでいるのです。真の国民、消費者主権を確立するために、共済団体全体が連携していかなければなりません。共済に対する法規制という事態がきっかけになりましたが、自主共済団体が協力・連帯を広げつつあり、共済運動は新たな発展段階に入ったと言っていいと思います。
 事務局で準備していただきました、参考文献の「3」のところに、協同組合共済団体が主体になって組織している(社)日本共済協会の機関誌『共済と保険』の巻頭言に寄せた文章を掲載してあります。後ほどご覧いただきたいと思いますが、自主共済を中心にした共済制度を守る国民的な広がりは、共済運動の歴史において一定の発展段階を画す、非常に重要な運動であると理解しています。


■「共済運動の展開と共済規制論の再燃」

 本論に入ります。
 「共済運動の展開と共済規制論の再燃」という見出しを付けておきました。
 皆さん方の自主共済運動が発展する契機となったのは、1970年以降の社会、経済的な変化だと理解されます。

 2度のオイルショックと福祉国家政策の見直し、そして市場原理万能論へ
 1970年代には2度のオイルショックがありました。わが国が本当に福祉国家になったという実感は全くありませんでしたけれども、1973年に福祉元年が宣言されて間もなく、これが見直されました。
 福祉の領域において国家の責任を国民の自己責任に転嫁する福祉社会政策への転換は、国民一人一人が生活保障に責任を持たなければなりません。財政危機を理由に、社会保障・社会福祉制度を民間に開放するという政策がすすめられたのです。国が公共事業の予算計画を立て、需要を作り出していくという、従来のケインズ主義的な考え方から、国民の生活にかかわる国の歳出を削減して、その分規制緩和し民間活力を導入していく市場原理万能の考え方に転換していく政策です。いわゆる新自由主義とか新保守主義にもとづく政策への転換です。

<中曽根、サッチャー、レーガン。市場経済政策の推進と民間への市場開放>
 社会保障・社会福祉にまで新自由主義の考え方が導入され、私たちの生活はどんどん厳しくなってきました。1970年代末頃までは、まだ革新勢力が議席を占めていましたが、1980年前後頃から革新政治も徐々に後退し始めていきます。そのころから、社会保障制度の後退がすすんできたと思います。軍備拡大路線と社会保障・社会福祉の切り捨て政策がすすめられ、1980年代に入ると、まず老人保健法が実施されました。鈴木政権の後を受けた中曽根政権の下では「戦後政治の総決算」「日米運命共同体」がスローガンに掲げられ、軍事費のGNP費1%枠を撤廃するとともに、アメリカの要求に沿って日米間の貿易不均衡を打開するために産業構造の転換を推進する政策を推進しました。また、健康保険の被保険者本人への給付を9割(当初は8割給付案)へ引き下げました。
 当時の厚生白書を見ますと、国民生活は豊かになり、社会保障に対する国民の意識やニーズも変わってきており、国民のニーズ・価値観の多様化に合った社会保障のあり方も検討される必要があると指摘されています。要するに、社会保障の領域を民間に市場開放する政策がすすめられていったのです。


■審議会行政の中で民間医療保険の拡大、総合金融化政策がすすめられた

 これに対応して保険行政は(当時は大蔵省でしたが)、保険事業に健康保険の代替的役割を担わせるために医療保険の商品開発を積極的にすすめるとともに、金融自由化・バブル経済の下で資産運用の規制を緩和し、「総合金融機関化」政策を打ち出しました。

 <民間医療保険の拡販、総合金融政策の推進、そしてバブル崩壊後の経営悪化>
 1970年代には外資系の保険会社、アリコジャパンが1972年に日本人向けの医療保険の販売の認可を受け、アフラックが1974年に認可を受けています。いずれも医療保険分野に特化した形で1970年代に日本の国内市場へ参入し、日本人向けの医療保険商品の販売を始め市場開拓的な役割を果たしました。
 1980年代以降は、成人病やがん保険など特定疾病保険の開発を、国内保険会社も積極的にすすめました。
 さらに1980年代半ば以降は、保険審議会を中心に金融自由化・バブル経済の膨張を背景にして、金融機能の強化に向けた資産運用の規制緩和の政策を打ち出します。
 さきほど損保業界の積立型傷害保険の話をしましたが、生損保ともに財テクブームの中で総合金融機関化戦略を強化し、高い予定利率を売り物した保険商品を開発しました。バブル期には保険会社は住専にも積極的に融資しました。しかし、バブル崩壊後は住専が破綻し、不良債権を保険会社も抱え逆ザヤに苦しみ、契約者には無配当とされたり、予定利率引き下げるため、転換制度を推し進めました。

<横並び商品・保険料率の中で拡販競争、配当競争の激化の中で海外危険投資で経営破たんへ>
 生保は料率算定会がありませんでしたが、監督庁の大蔵省の許認可を通じて事実上横並びの保険商品、保険料率を採用してきましたから、大手生保会社も中小生保会社も同じような事業経営を行ってきました。競争するところは、もちろん拡販競争です。あとは配当金の規制緩和の中で、中小会社は無理な高配当金を付けていきました。それが中小会社の経営を苦しめることになって、1990年代後半に生保会社が7社、損保会社2社が経営破たんしました。大成火災の場合、アメリカの9・11の同時多発テロがきっかけだと言われますが、結局横並びの中で起きた問題・矛盾です。自動車保険をいかに多く売るかと言っても、大手会社と中小会社とではネームバリュー、代理店の数、マンパワーもけた違いに違います。そういう中で中小損保会社は東京海上(現在は東京海上日動火災)、安田火災(現損保ジャパン)、三井海上や住友海上(現三井住友海上)などの大手会社と競争しなければなりませんでした。
 同じ保険商品を同じ価格で販売しても、経営効率の悪い中小会社にとっては収益が上げられるかどうかギリギリのところです。算定会料率は、ある程度の市場シェアを確保できれば採算の取れる料率水準ですが、中小会社にとっては厳しい経営を余儀なくされています。損保大手4社で市場の6割くらいの保険料収入を上げていますから、主力商品の自動車保険で収益を上げるのは難しくなります。中小会社は国内の保険収支で儲からない分をどこで穴埋めしたかというと、危険な海外の金融再保険を引き受けたのです。フォートレス・リーという兄弟でビルの小さな一室で経営していた再保険斡旋のブローカーが手配した、航空保険の再保険の引き受けに手を出していたのです。以前、この再保険シンジケートには富士火災なども参加していたようですが、早々に撤退し、残ったのが大成火災や千代田火災(現あいおい損保)、日産火災(現損保ジャパン)などでした。

<航空保険と再保険シンジケート、そして大成火災>
 この航空保険の元受会社はアメリカの損保会社で、自社でリスクをそのまま抱えていると危ないから、全部ないしは一部分を再保険に出すわけです。航空保険ですから、航空機が墜落したり、乗客への賠償責任リスクは大きいので、再保険も一社では引き受けられないので、シンジケートのような組織をつくり、シンジケートに参加する各社は自社で引き受けられる分だけ引き受ける仕組みで、そこに大成火災は参加していたのです。
 再保険を引受けると再保険料収入が入ってきますが、自社でそのリスクをそのまま抱えていると危ないですから、再々保険に出します。通常の再々保険ですと、再々保険料は高く、再保険料収入と再々保険料の差額は少なく、もうけがあまりありません。ところが、この再々保険は、もし保険事故が発生して再保険金を支払わなければならなくなった時に、5年返済の融資を受けるという仕組みだったのです。つまり、再々保険料ではなくて、融資を受ける手数料分を支払うだけですから、再々保険料よりも負担が少なくて済むのです。その差額が利益になっていたのです。航空機事故がない時はかなりの利益が得られますが、9.11の同時多発テロで航空保険の再保険金支払い責任を負ってしまい、再々保険者から再保険金相当額の融資を受け、3〜4割の利息を付けて5年で返済しなければならなくなったのです。わが国の保険業法・同法施行規則上、5年間負債を抱えることは認められず、行政から業務停止命令を受けるという結果になり、破綻したのです。
 大成火災の経営破たんの原因をたどると、国内市場で同一商品を同一価格で販売してはいたものの、大手会社との市場競争の中で、十分な収益が上げられずに苦し紛れで危険な金融再保険に手を出していたことが明らかになります。
 料率算定会制度のもとで大手会社と中小会社の格差が広がっていき、経営破綻につながったと言えます。これは損保事業だけでなく生保事業にも言えることです。